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仕事納め

  午前中に、成城大学へ先月の研修旅行の精算書を届けて、今年の私の仕事はとりあえず終了。帰りに梅が丘の『美登利寿司』で大漁ランチを食べて打ち上げです。来年の仕事もいくつか入ってはいますが、年内にやらねばならないような急ぎのものはありません。事故も病人もなく、今年も無事終えることが出来そうなのは何よりです。でも、最近は固有名詞がすぐ出てこなかったり、忘れる事が時々あったりして、ボケたなと思うことがしばしばです。体力の衰えは自覚してますし、敏捷性や瞬発力は無いも同然かもしれません。好奇心はまだあると思っていますが、すぐ本を買ったり、博物館などへ行くことは減りました。これは自分自身でも悲しく思います。新しいことに、億劫になっていますね。電気製品のマニュアルとか読む気がしないもの。やですね、年寄りは。来年はどうしているかわかりませんが、症状が良くなっていることはないでしょう。
 

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# by JF1EBPKH | 2018-12-07 22:54 | 仕事 | Comments(0)
  JR東日本が、西日暮里駅以来40年ぶりに新設する山の手線の新駅の名称を『高輪ゲートウェイ』に決めたそうです。公募による1位は「高輪」。2位は「芝浦」で、3位は「芝浜」。「高輪ゲートウェイ」は130位だったそうで、ならば公募した意味などないじゃありませんか。自分たちで決めるなら、公募なんてしないで、自社の駅名は自分たちで決めると言えばいいのです。思わせぶりなことを言って実行しない。オタメゴカシそのものでしょ。JRの言い分によると、高輪は江戸時代以来の地名で、ゲートウェイは未来への門戸だということです。ならば、江戸時代の地名「高輪大木戸」でも良かったのか。「芝浜」ならば、落語を知っている人ならその名称だけで情景が目に浮かんできます。「芝浦」ならば、東芝の創業者・からくり儀右衛門こと田中久重に連なる沖電気、池貝、宮田工業等、東京芝浦電気という由緒ある会社の連想が可能です。ああそれなのに。
  かって、治世者は、新しい新田や開発した地名にはよき名前をということで、横浜で言えば日の出町、黄金町、長者町、万世町、蓬莱町などお目出度い名称を付けたものです。名称は、言霊そのものです。「品川」駅の地名が高輪なのも何ですが、ゲートウェイとは?でしょう。言霊もたまげます。キラキラネームにしたかったのでしょうか。そのセンス、発想のなさ、歴史観の不足=馬鹿名付け親そのものです。
  少し昔、日本国有鉄道は国電の名称をE電と名付けて大宣伝をし、大コケしました。今回も大コケて欲しい。つくづく心から祈りたい。
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# by JF1EBPKH | 2018-12-04 21:09 | 日常 | Comments(0)

菜園は今

e0116694_20520701.jpg   相模野基線のことばかり書いてましたので、今日は菜園のこと。この高揚した木は何でしょうか。何と、ブルーベリーなんです。3本ほど植えてありますが、こんなに紅くなるのは1本だけ。深い紅色でとても綺麗です。すぐ脇に、ツルウメがあるのですが、今年は赤い実がなかなか割れてきません。黄色い実ばかりたくさん付いてますので、毎年のように家に持って帰って玄関先に活けましたが、活けない方が実が割れてきそうです。昨年は11月下旬で赤い実がたくさん見えてたので、やはり今年は暖かいのでしょう。e0116694_21055840.jpg                 サトイモは先週全部掘ってしまいました。畑を空けておかないと、ノラボウが植えられません。ノラボウはアブラナ科の植物で、菜花の一種なのですが、北多摩郡特産なのでほかの土地で植えてもうまく出来ないと言われています。種を蒔き、植え替えなければならないので、ちょっと手間なのですが、美味さは一番です。あまりにもおいしいので、毎年あきる野市に住んでいる知人がダンボール一箱送ってくれるのですが、先月ホームセンターでノラボウの種を売ってましたので、喜んで買ってみました。せっかく種が手に入ったので、今年は自分で育ててみようというわけです。          今、菜園には長ネギが3種類(深谷ネギ、長ネギ、分けネギ)、小カブ、茎ブロッコリー、プチベール、芽キャベツ、白菜が植わっております。小カブのサラダはみずみずしくて、採れたてなればこそ。長ネギは鍋物には欠かせませんが、掘りたては深谷ネギの青い部分も軟らかくて美味いです。ノラボウ、茎ブロッコリー、プチベール、芽キャベツなどはどれもアブラナ科(ハクサイも)ですが、春の野菜は皆美味しい。そろそろキヌサヤも植えなけきゃネ。長ネギの畝で空いているところは、もう食べてしまった所です。e0116694_21184195.jpge0116694_21190631.jpg
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# by JF1EBPKH | 2018-12-03 21:34 | 晴耕 | Comments(0)

相模野基線北端点

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   e0116694_23334386.jpg 昨夜遅く、パソコンをググってましたら、相模原市立橋本図書館で"明治と三角点"という講演が今日あると出ていました。ギャラリートークという名目でしたが、10名までとあります。もう遅かったので、今朝図書館のオープン時間を待って、ダメかなと思いながら電話を入れましたら、参加者が少ないので是非お越しください、とのこと。ならば、この際相模野基線の北端点も見ておこうと思い、ギャラリートークは午后2時からでしたが、自宅を大分早く(10時過ぎ)出掛けて行きました。南端点だけでは片手落ちでしょ。
  北端点は、相模原市の麻溝台中学校の西隣にある、と書いてあります。相模大野の駅で降りて、神奈中バスで北里大学東病院という停留所で下車しました。下車徒歩10分ほどとありましたが、中学校はすぐ判りましたが、北端点らしきものがありません。結構広い中学校で、周囲1kmくらいあるでしょうか。2周近く回ってみましたが、見つかりません。仕方なく、中学校の正門にいらした男性に尋ねてみましたが、知らないとのこと。私のタブレットを見せ、その人もスマホで検索しましたがわからないので、車で捜してみましょうと、自分の車を回してくれました。まぁ、何と親切な方でございましょうか。恐縮しながら乗り込んで、中学校をみたび廻りました。しかし、ありません。番地は相模原市南区麻溝台4-2099-2とあるのですが、地図検索で調べても、そんな4桁番地はありません。中学校の番地は麻溝台4-12-1です。地番整理があったのです。私はもう申し訳なくなって、さっき乗せていただいた正門で結構ですからといったのですが、西方面のまだ入っていない路地を、ここ車が通っていいのかな?なんて言いながらノロノロと進めると、写真で見た一角らしき箇所がありました。まぁ、小1時間ウロウロしたことになります。乗せていただいた方にお礼を申し上げ、急いで写真を撮り、さて橋本駅まで急がなければなりません。周りは住宅地と畑地が混ざっているようなところで、横浜線方面に出るバスはないか訊きたかったのですが、歩いている人が見当たりません。仕方なく、さっき降りた停留所まで戻り、しばし待って相模原駅南口行のバスに乗ったのはいいのですが、その所要時間のかかること約1時間。私は橋本駅で昼食を食べても十分な時間をみてたのですが、結局昼食無し、トイレ時間なし。橋本駅隣接の図書館に着いたのは2時を5分ほど回っておりました。
e0116694_23182216.jpg   ギャラリートークは相模山路会(山岳会)の川野整氏。相模原市内の山88座をすべて踏破し、そのついでに三角点を見て回っていらっしゃるという。まず三角点の存在意義から始まって、歴史、現状の三角点の状況など。相模原市内の北端点の話、丹沢山頂の一等三角点はもちろんですが、2010年より国土地理院は全国約109,000点ある三角点のうち、維持管理するのは骨格的な2,400点に絞り、その他は廃点、再設移転の復旧作業は行わない方針を決めたそうです。GPS測量によって電子基準点網が完備されたからだそうですが、かって一等三角点を築くために90キロもある基盤石を山頂まで人力で担いでいった先人達の労苦も忘れられてしまうのでしょう。土に埋もれてしまう三角点のように。

相模野基線北端点の住所は、
  相模原市南区麻溝台4-10-14
  佐藤整形外科の裏

左の書面は『点記』と呼ばれ、三角点を設置した際の報告書です。誰がいつ設置したのかはもちろん、どのように設置したか、周囲の状況はどうだったか。設置に携わった職員の装備、食料・飲料水の求め先、宿舎は?等々、細かな部分まで記載されている公文書です。私はこのような文書があるのを初めて知りました。
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# by JF1EBPKH | 2018-12-02 21:47 | 趣味 | Comments(0)
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   この下見ですが、出発地は相鉄線さがみの駅。出発時間も本番と同じ朝9時半に合わせました。当初は、我々だけで下見をする予定でしたが、南端点は住宅地の中ですので、駅から直行すると行くまでに話を繋げられるものがほとんどありません。少し西側に回れば、戦前の海軍工廠や陸軍士官学校など、瀬谷と同じような軍関係の施設があり(終戦時米軍にすぐ接収されて座間キャンプ地となりますが)、防空壕とか、湧水水道などがあって、瀬谷とも関連する案内できるところが増えそうなので、私が市の文化財課にメールで照会し、ならば"座間ふるさとガイドの会"を紹介しましょうということで、地元のガイドの会へ同行を依頼しておりました。そのガイドさんと駅頭で打ち合わせをし、当方の趣旨をご説明して、さて出発です。  しかし、道しるべやいろいろな表示板、道標などがあるたびに歩みが止まってしまうので、なかなか進みません。500mほどに30分かかっております。今日中に終わるかな、夕方から雨らしいのに、と当方は気をもみながら先にとせっつきます。そして、歩きながらいろいろな質問を投げかけていきますが、趣旨がうまくご理解いただいているのか、不安もあります。仲介者として。  1kmほどの地点で、トイレ休憩も兼ねた公民館に挨拶。本番ではトイレだけお借りするのですから、失礼のないようにお願いします。当地に来て、ガイドさんの話を聞いて知ったのですが、座間市は公営水道のほとんどを地元で湧き出る水を水道水にしているそうで、万が一のために県から15%を保険代わりに導入しているとのこと。軍(米軍も)ここに工廠や学校を設置したのも、水に不自由しないからだったかもしれません。座間市内には河川が2本しかないようですが、流れは綺麗で、蛍が生息できる水質だそうです。戦後、日産自動車の大工場が出来て地下水を大量に使っていたため、大分水脈が細くなってしまったようですが、田んぼがない相模野台地は、降った雨を大量に地下に蓄えていたのでしょう。戦中の防空壕の跡も復元されて、終戦時の対B29戦に備えた「雷電」戦闘機もここで作られ、台湾からたくさん工員をここに集めたそうです。知らないことが、たくさんあります。  さてお昼も過ぎてしまいましたが、まだ南端点へ着きません。皆を急がせて、南端点へ。私は初めてでしたが、いろいろな人のブログの通り、民家(お医者さんの家)の敷地の一角にそれはありました。何とも貧弱な一等三角点です。ここから日本の近代地図が描かれていったのだ、とはとても思えません。行ってみてガッカリという観光のシンボルはたくさんありますが、ここも負けていません。ここを基準点に決めたのは、当時の日本陸軍参謀本部陸地測量部ですよ。台湾、朝鮮、樺太から中国大陸、マレー半島まで測量して地図を作っていった日本陸軍ですよ、元は。地図事業を引き継いだ内務省、建設省はこの史跡とも言える場所を忘れていたのです。民間人の敷地1㎡にも満たない所なのに、保全すらしていません。地元の市も知らなかったのでしょうね。高校中学の地理の先生もいたでしょうに、ガッカリ史跡です。そのあと訪ねた中間点も同じような状況というより、道路上のマンホールでしかありません。マンホール脇に、高さ30cmほどの安っぽい国土地理院の名称が欠かれたプラスチック標識があるだけ。これじゃ、皆様来てくれないかも。e0116694_23252656.jpge0116694_22004989.jpgv>

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# by JF1EBPKH | 2018-11-29 21:52 | Comments(0)
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  来月早々に、我々が会合の会場にしている南瀬谷小学校コミュニティスクールが主催して、講演と現地散策の企画がございます。今回は、"地図の原点はすぐそばにあった"として、相模野基線を見に行こうというもの。ご存じない方がほとんどだと思いますが、明治時代、日本が近代地図を作成するにあたって、国土を測量をする基準の基本をどこに置くかという基本の基本の線が引かれたのが相模野基線ということです。三角点の第一号ということですが、三角点一個では基準になりませんので、最低2つ必要になります。その2つの点がいづれも神奈川県にあって、南端が座間市。北端が相模原市にあります。それを見に行こうというわけですが、この役割の重要さを日本国民はもとより、地元の人もほとんど知らないのです。すぐ近くにあるのに、この存在を知らないのは国の教育行政の怠慢だと私は思うのですが、㈶日本土木学会が2010年に日本の土木遺産として指定するまで、ほっておかれた遺産です。
  今回はその下見です。しかし、この基線が引かれた明治15年当時、ここは山や樹木など何もない見通しの素晴らしく良い測量するには最適な平地として選ばれただけに、何かを物語るものが何もないのです。あるのは半世紀後に造られる日本軍の施設。海軍工廠や陸軍士官学校など。でも、歩くのにはちょっと方角が違います。せっかく参加される方に退屈させないようなもの、所はないかと、今日は座間市のふるさとガイドの方にご協力をいただいて下見歩きです。
e0116694_22195221.jpg明治15年2月 神奈川縣相模國髙座郡鵜野森村外四箇村 1/25000 迅速図
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# by JF1EBPKH | 2018-11-28 21:21 | 趣味 | Comments(0)

誕生日

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# by JF1EBPKH | 2018-11-27 21:10 | 日常 | Comments(0)

奈良一日フリー切符

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 今回、4日目の自主研修では奈良交通の一日フリー切符を使いました。ホテルのあるJR奈良駅前から東大寺、東大寺を廻って今小路からJR駅へ戻ってホテルに預けた荷物を取って近鉄奈良駅への3回しか乗らなかったのですが、この方が安いのです。薬師寺や唐招提寺へも行けるのですが、今回は今井町へ行く予定なので使えません。これまでなら、JR奈良駅⇔東大寺など、3~4回往復しても何ともなかったのに、今回は左足の調子が悪く、今井町で歩けなくなったら困るからと大事を取りました。
  このフリー切符を買いにJR奈良駅前の奈良交通のバスターミナルに行ったのですが、案内所が見つからず、バス乗り場にいる奈良交通の案内人の方にフリー切符はどこで売っているのか尋ねましたら、JR奈良駅構内の2階の案内所へ行って下さい、とのこと。足が痛かったので、その時は100mも歩くのが嫌だったので、駅前に販売しているところはないのかと再度尋ねましたが、JR駅に行ってくれとのことです。京都駅では、バス乗り場の一角に大きな案内所があって、乗り場と案内所が目と鼻の先にあります。なのにここは、と少なからず呆れてしまいました。JR奈良駅を利用して奈良市内を観光する人がどれだけいるというのでしょう。1時間に2本程度しか電車は来ないのですよJRは。観光客は便の良い近鉄で来るでしょうし、バス乗り場でもないJR奈良駅の2階で案内所ですと。バス乗り場で目を凝らしても、案内所はないのです。お客様本位には全くなっていませんね。
  奈良の観光大使を務めていた某ホテルの総支配人さんは、奈良は家業がほぼほぼだったらええんですわ。京都のワコールや任天堂のように、外に出て行こうとはしないで、ほぼほぼ生業が成り立っていれば可なんですと。奈良遷都1350年の節目の年度にも、奈良市役所、奈良県庁も幟を下げませんでしたし、公選したゆるきゃらの"セントクン"の応援どころか、セントの上をいく"マントクン"とかほかのゆるキャラを許可して。せっかくマリオットホテルが新大宮に進出しようとしていたのに、手続きが遅く結局工期が間に合わなくなって、マリオットは撤退。生業が成り立つどころか、興福寺旧境内の旅館"大仏館"は大阪の不動産屋に買われて駐車場に。猿沢の池畔の老舗"魚佐旅館"は廃業。JR奈良駅前に"三井ガーデンホテル"が建つときは、地元の宿泊業に影響が大きいから修学旅行生はとらないと契約させながら、駅前の"いろは旅館"はスーパーホテルになり、JR奈良駅横の"奈良国際ホテル"も廃業してしまいました。家業も成り立たない地盤になっているのです。行政と民間がチグハグなのです。
  自称奈良応援団として、奈良ファンを一人でも増やそうとしているのに、修学旅行生を受け入れることが出来る宿は今何軒あるでしょう。食事場所しかり。奈良市内、法隆寺も薬師寺も、お奨めできる宿もレストランもありません。見せたいところは山ほどあるのに、世界でここだけというものはたくさんあるのに、京都から毎日通ってくるのは面倒ですよね。でもねぇ、現状は宿も食事も京都で、という人が圧倒的に多いのです。
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# by JF1EBPKH | 2018-11-26 19:13 | | Comments(0)

道長 千年後の満月

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  京都から帰る新幹線から、とても美しい満月を観ることが出来ました。写真を撮ろうと思いましたが、あいにくカメラの電池が切れていて、残念。
  翌日のニュース記事によれば、何と、昨日(11/23=旧暦十月十六日)の満月は、道長が詠んだ「この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることもなしと思えば」の満月から、ちょうど千年目の満月だったというのです。平安の貴族藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』や、道長自身の日記『御堂関白記』によると、道長はこの歌を寛仁二(1018)年十月十六日に詠んだそうで、兵庫の明石市立天文科学館の井上毅館長が調べてみると、この日は確かに満月だったということです(この稿、朝日新聞デジタル11/23配信より)。
  道長はこの歌を詠んだ後で、「奢った歌かと思うかもしれないが、……」と皆が居並ぶ満座で語ったということですが、この世はすべて自分が思うままにできるのだが、あの世のことまでは如何ともし難い、と末法が近づく世の中をひどく怖れていた風が私には感じられます。満月のあとは欠けるばかり。自分も、一族も……と、なすすべがない自らの力の限界、人間には及ばないものがあるという諦念も感じられます。
   その子頼通は、この道長から譲られた別荘を寺院に替え、平等院とするわけですが、竣工するのはまさに末法が始まるといわれた永承七(1052)年。のちに頼通はこの鳳凰堂で阿弥陀仏様から導かれた五色の糸を握り絞めながら息を引き取ります。
   私が鳳凰堂に初めて入ったのは中学三年でしたが、修学旅行で訪れた鳳凰堂で感激し、翌年の夏アルバイトで得たお金で一週間京都・奈良の古社寺を巡りました。鳳凰堂は今のように拝観の制限などはなく、何時間居ても誰にもとがめられませんでした。眠たいような眼をした定朝の阿弥陀様。周りに飛び交う雲中供養菩薩たち。真夏の暑い日差しの中を毎日歩いていた私には、涼しい風が吹き抜けていくお堂の中で、私はそれこそ極楽にいるような思いをしていました。頼通が糸を握っていたと同じ空間にいることが実感できたからです。
   今年も、お堂に入る前に大学教授と鳳凰堂の話をしながら、自分の鳳凰堂への想い出を語っていました。この教授は、〈鳳翔館〉の展示をデザインした方です。雲中供養菩薩は展示替えをしないんですかとか、いろいろ話題は尽きないのですが、同じ時代に同じような思いをしていらしたことが判りました。来年もまたこの研修旅行は実施されるでしょうが、私はたぶん同行出来ないでしょう。でも、今の学生の中から、一人でも古美術に興味を持ってくれる学生が出てくることを願っています。
※冒頭の満月写真は合成です。
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# by JF1EBPKH | 2018-11-25 21:23 | | Comments(0)

今井町

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  大学の研修は3日間で終了して現地解散のため、私はもう1泊して前から行ってみたかった今井町へ行くことにしていました。午前中に水谷茶屋を見に、春日大社から東大寺を一周して、大和八木西口駅へ。そこから歩いて10分ほどで重要伝統的建造物群保存地区の今井町に着きます。東西約600m、南北約300m、現在でもここに約500棟の町屋が残されています。環濠集落と呼ばれていますが、自営上の掘りが造られたのは戦国時代。一向宗本願寺の御坊が出来てからだというのです。相手は信長。結局は信長に降参し、赦免の朱印状で自治権を得たことが始まりです。経済の裏付けは米、肥料、木材などの商業でした。海の堺、陸の今井と言われてますが、堺にそそぐ大和川の支流飛鳥川が今井町のすぐ脇に流れています。なるほど。e0116694_22173623.jpge0116694_22200752.jpg  しかし、街の中ですれ違う人はほとんどいません。居ても、高齢者ばかり。小中学校は、この寺内町にはなさそうです(お堀の外にあります)。でも、重要文化財の民家は10棟もあるのです。中でも昭和32年に重文指定された惣名主今西家は、城塞のような造りです。いづれも予約すれば内部を見学させてくれますが、今回は時間がありません。今井町のすぐ隣には八木町がありますが、ここは街道の交差路。登録有形文化財から、近世、近代の歴史をうかがわせる建物や町屋が300件残ります。近世の旅籠も現在再現修復中とか。自治体の橿原市は町家を修復して貸したり、体験生活をさせてくれていますが、店を開いても永く続かないのだとか。しかし、こういった町は全国的に無くなっていくのだから、今存続を続けて欲しいと思います。町全体が重要建造物群なんてところは、もう数えるほどしかないいのだから。e0116694_23285409.jpg      この写真は、明治時代に彼の関野貞博士が設計した奈良県の勧業館(現奈良国立博物館別館仏像資料研究センター)ですが、冒頭の建物は今井町の旧町役場で、それ以前は社会教育施設でした。現在は、今井町まちなみ交流センター『華甍』(はないらか)として、今井町見学の案内所として公開しています。そっくりです。同じ博士の設計かな?
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# by JF1EBPKH | 2018-11-24 22:21 | | Comments(0)