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カテゴリ:趣味( 172 )

横浜市3千分の1地形図

  横浜市は、①戦前1928(S.3)~1965(S.40)と、②戦後1954(S.29)~1965(S.40)の2回、国土地理院の地形図とは別に独自で1/3000地形図を作成しております。それは七十数枚になりますが、1枚はA3で8枚分の大きさになります。戦前の鎌倉郡瀬谷町は昭和14年に横浜市に編入され、横浜市戸塚区瀬谷町になります。町域は上記の地図上で上瀬谷・瀬谷・下瀬谷の3枚にわたり、逗子市より広い町でした。
  我が家族が山形の疎開先から瀬谷町へ来たのは昭和29年。瀬谷町が3枚の地形図に描かれる測量が行われた時期になります。家の周りは雑木林と桑畑、イモ畑で、田んぼは小さな川沿いにあるだけでした。その当時の様子が1/3000地形図でよくわかります。
  ところが、この地図が3月29日㈮を最後に、見ることが出来なくなってしまったのです。“1/3000横浜市地形図”をいくつかのサイトから検索しても、[見つかりません]としか表示されません。新年度から見られなくなったのは、役所の都合だなと思い、管轄する横浜市建築局に問い合わせをしようとしましたが、今この局はありません。現在は、横浜市まちづくり調整局都市計画課に名称変更しております。誰でもわかる一般普通名称から、横浜市役所内だけでしか通じない部署名に何故換えたのか。市役所に務めている知人に聞いても判りにくくなってしまってとのことでしたが、これは市民から来るクレームがどこに問い合わせたらいいのか判らなくするためだなと思います。今回がまさにそうだと思います。
  話を戻しますが、1/3000地形図の現物は、横浜開港資料館が持っていると記憶にありました。実物大の複製とコピー(有料)が出来るとも。今日は、横浜開港資料館の講堂で《横浜郷土史団体連絡協議会 第14回定期大会》があり、それに出席することになっていました。昨年も我が地図くらぶの会長氏とともに出席しています。なので、ついでに資料室によって、現物をコピーしようと思いました。ところが、
ここにも瀬谷の1/3000地形図はありませんでした。戦前の旧市街地の地形図はあります。パソコンの画面で、出てこないことも確認してもらいました。用が足りないので、係の人は市史編纂室の案内をくれましたが、そこに電話をしましたが昭和30年代の地形図は無いとのこと。あるとすれば図書館かなぁ、との回答でした。市史編纂室は、野毛の横浜市中央図書館の地下にあります。大会の開始時間が迫っていましたので、結局野毛までは行かなかったのですが、それまでの時間が惜しいじゃないですか。また出直しです。

by JF1EBPKH | 2019-04-20 21:26 | 趣味 | Comments(0)
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  たまたま合板博物館のホームページを開いてみましたら、“仏像鑑賞の手引き”というイベントがあるのを知りました。一応予約制だったので、メールで問い合わせましたらOKでした。内容は仏像の見方の極初歩的な内容ですよということでしたが、講師が美術史出身者ではなく、仏像修復家であるのが聴きたかった理由です。ついでに、合板業界によるこの施設や財団にも興味がありました。この施設がある新木場の江東区や墨田区は、町中にある工場や工房を街の博物館として公開しています。区が主導して、後継者や伝統技術を次の世代に残したいという意図からです。
  開演は13時半からでしたが、駅前で昼食を取り、12時にはこの施設に着いておりました。合板はどうやって作られるかはもとより、木材が日本や世界の文化にどのようにかかわってきたのか、など文化としての木材を知らしめようとしているように感じました。展示としては、木材サンプルが非常に良く集められています。国内はもとより、海外の珍しい木材まで数が揃えられています。中でも木材の樹皮まで付けたままの木材ブロックは珍しいもので、係の人は葉も集めたいと言ってましたが。e0116694_14394700.jpg 
 講演の講師は長井武志氏。芸大の大学院(保存修復技術彫刻)を終了。研究生から助手となり、自分で古文化財保存修復研究所を立ち上げて、現在は目黒の五百羅漢の修復をここ何年間かけて修復中とのこと。彫刻の恩師は、美術院国宝修理所の西村公朝氏だそうです。
  講演は最初に如来、菩薩、明王、天などの説明から始まりましたが、そこは短めに端折って、やはり自ら携わった修善寺の阿弥陀仏から出た髪の毛が北条政子のものかどうか。その調査はどのように行われたか。また、修復中に得た玉眼を触らせてくれたり、コクソ漆の作り方など、私はヘラで粘度を確認させていただきましたが、コクソにもいろいろあって、木粉(今回はヒノキ粉)、砥の粉、小麦粉(薄力粉)での処理方など、実際の修復技術の一端に触れた気がいたしました。こういう体験は有り難いです。e0116694_15223411.jpg
  講演後、係の方がお茶とお茶菓子の用意がありますのでどうぞ、と声がかかりました。私はコクソ漆の調整法が大変うれしく思いましたので、お礼を述べようと講師の方に話をいろいろしていますと、係の方が次回の大宮での話をしています。来月は大宮の博物館で講演があり、その後長井氏の修復工房見学が予定されているそうです。大宮か、遠いなぁと思いながら、行ってもいいかなとも思うのでした。お土産は合板の木っ端詰め放題で540円。花台用に10枚ちょっと。いやー重たかった。
by JF1EBPKH | 2019-04-14 22:42 | 趣味 | Comments(0)

2019年やよい祭

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  南瀬谷小学校コミュニティスクールの"2019年やよい祭"が今日から始まりました。昨日は、掲示物の搬入、それ以前はその掲示物の作成と、行事の前は段取りに忙しくなります。今回は、このコミュニティスクール主催の《相模野基線・南端点を見に行く》という企画に全面協力をしてましたので、その報告ということにしました。そのために、掲示用の資料を復習しながら作っておりました。これは勉強になりますネ。今回はプリントも明るく解像度も上がってきれいに仕上がりましたので、地図も文字も良く見えます。 明日もまた説明当番に出ますが、皆さーん、どーぞ見に来て下さーい。 
by JF1EBPKH | 2019-03-02 20:27 | 趣味 | Comments(0)

横浜・瀬谷地図くらぶ

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    昨日は相沢川の見学会。今日は瀬谷公会堂での広報宣伝と、我が"横浜・瀬谷地図くらぶ"も年度末は、いろいろな行事が続きます。  昨日の相沢川見学会は、総勢約40名という多数の方のご参加がありました。グループを分けなくてはいけないかなと、事前の心配までしておりました。相沢川というのは、瀬谷区を流れる川なのですが、今、この川の真下に、川と同じ幅でもう一本川を掘っているのです。管理側からの管轄から言えば、相沢川源流は横浜市緑区長津田町なのですが、管理者は横浜市の下水道局。それも保土ヶ谷バイパス以北は下水道(雨水)は南の瀬谷区には流さず、東京湾にそそぐ帷子川(かたびらがわ)水系に流しているのです。で、瀬谷区側は調整池を設け、相模湾にそそぐ境川水系に最終的に流しているのですが、南側は相沢川の両岸は住宅が密集して広げることが出来ず、やむなく川の下をシールド工法で直径3mの管状の川を掘っているということなのですが、区民は何も知らず、この工事は来年3月には完了してしまうらしいのです。何のために、この工事が進めらているのか。調整池の周りはかっての米軍上瀬谷通信基地で、住民はいません。地面は舗装されていませんので、増水する心配もありません。横浜市と国は、ここに2027年に国際花博(万博)を招請する調査費を来年度予算に組み入れることを決定しております。横浜町田インターから車で5分。16号線、246号線、保土ヶ谷バイパスには隣接しております。通信基地でしたので上屋は一棟も建設されていません。市内というか関東地方でもこれほど足の便の良い、広い平坦な更地は無いでしょう。花博が終わったら何が出来るのか。区民のほとんどは、今のまま凧揚げが出来る原っぱのままが良いとアンケート調査に回答しております。また、瀬谷駅前にある市立瀬谷中学は、廃校が決まった県立瀬谷西高校に移るのではないかという噂があります。瀬谷中は私の母校でありますが、瀬谷駅から歩いて1分。市内の市立中学では校庭が一番広い中学です。瀬谷は横浜市の一番西に位置する区ですが、かっては横浜市の西の入口と位置付けておりました。瀬谷駅前の開発は北側は終わっております。南側はようやく今年の年始からようやく着手され始めたところです。環状4号線に沿って、南北に路面電車かモノレールなどが出来れば、足の便が格段に良くなり、居住しても、物流の基地としても大発展することは間違いありません。市は、旧米軍上瀬谷通信基地の跡地利用についての展望をいまだに出しておりません。勘ぐれば、相沢川の治水対策は十年後の布石とも考えられます。花博の足の利便のために国費で交通機関を整備し、万博施設は六か月間の仮建設で終了後は撤去されるのが原則です。市は何を考えているのか。その時誰が市長になっているのか。相沢川の見学会では、うかつな噂話は出来ませんでしたが、どのように大変貌するのか、見届けてみたい今後の十年です。  冒頭の写真は、本日の瀬谷公会堂のデスク前です。
by JF1EBPKH | 2019-02-17 21:16 | 趣味 | Comments(0)

寒仕込み味噌

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  昨年も寒仕込みで赤味噌を作りましたが、今年は西京味噌に挑戦です。でも、材料はまったく同じ。大豆と麹と、塩だけです。西京味噌と赤味噌の違いは麹の比率だけ。麹を多めにすると甘みのある西京味噌になります。発酵が早く、酵母の甘さがより醸成されるからでしょう。しかし、我が家の味噌汁には甘すぎますので、味噌汁には赤味噌と合わせみそにする予定。多い分は、西京味噌漬けの床にするつもりです。  連れ愛は九州文化圏の下関で育ってますので、味噌汁の基本は甘みがある麦味噌。連れ愛の実家で初めて味噌汁を飲んだ時は、ちょっと甘いなと違和感がありましたが、魚などを味噌汁の具にした場合はかえってこの甘さが何とも言えない美味さを醸してくれます。関東から北ではあまり魚を味噌汁の具にはしないので、西は麦麹、東は米麹と、これは食文化の産物でしょう。  今日の仕込みは、大豆を洗って一晩水に浸す段取りだけなのですぐ終わってしまいました。本番は明日。大豆を煮て潰し、麹と塩を混ぜ、容器に密閉します。西京味噌は麹が多いので、赤味噌より大分早く(3カ月後くらいから)食べられるので、まずは西京味噌漬けからかな。作る前から楽しみです。 
by JF1EBPKH | 2019-01-27 22:07 | 趣味 | Comments(0)
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  さて、今日は"相模野基線南端点"探索の本番です。朝から良い天気で、ちょっと寒そうですが、歩くのには最適かもしれません。相鉄線さがみの駅から総勢約20名でゾロゾロ歩き始めました。 さがみの駅北口を出ると、北に向かって広い道路がありますが、車道より歩道の方が倍近く広い道です。もとは滑走路だったそうで、国道246号線の向こうまでずっーとこの40m幅の道が続いています。車道と歩道の境には桜並木があって、この桜並木は戦後植えられたものですが、みな老木となってしまったので、現在植え替えが行われています。  座間といえば、神奈川県民には米軍座間キャンプの連想が湧きますが、かっては陸軍士官学校とか、海軍座間工廠とか、軍都としてのイメージがありました。小田急線の相模大野駅は、かって通信学校前駅でしたし、相武台前は士官学校前駅でした。それがアメリカとの戦争直前に、今の駅名に換えられていますが、今さら変えてもという気がします。相武台という名称も、昭和天皇が士官学校に行幸される際、陛下自らが命名した地名と言われておりますが、相武は相模の国と武蔵の国の境にある双方の一字を取ったものと思われますが、尚武の語呂合わせとも思えます。閑話休題。  さがみの駅からまっすぐ目的地へ行っても途中の話題がほとんどないので、少し回り道にはなりますが、芹沢公園を廻っての散策です。座間は市民の水道に市内の湧水を活用しています。市内の湧水だけで100%水道水は賄えるそうですが、地震など万が一のために15%ほどを県の水道企業団の水を引いているそうです。芹沢公園は大きな谷戸(やと)を公園にしたもので、この湧水の湧くポンプ場や、海軍工廠の工場跡地などを見ることが出来るのです。e0116694_22214662.jpg谷戸の段丘になっている崖に横穴を掘り、航空機の部品製造や組み立てを行っていたようで、この横穴を掘るために(だけではなくとも)、当時日本国だった台湾や朝鮮より若い人々を職工募集と称して集めていたようです。彼らの同窓75周年記念碑が今年の10月に建立されていました。しかし、台湾の人々は韓国の徴用工のような反日の傾向は感じられず、むしろ懐かしがって、これまでにも5年ごとに来日されていたそうで、今回の75年で皆年老いたので最後の同窓会とした記念なのだそうでした。民族性の違いだと思いたいです。
  なかなか南端点につきません。道路っ傍の標識を見付けると立ち止まり、看板があると写真を撮って読んでいるからです。でも、南端点にはちょうどお昼には到着いたしました。
  そこからは希望者のみ中間点へ。直線にして約2.5km。この区間には説明するものがまずありません。基線が計測された当時も何もない平原だったからこそ、ここに基線を引いたのですから。しかし、座間市はここにも桜の小道を作っています。六十数種の桜並木を植えて、一年中どこかの桜の木には花が咲いているという趣向です。今日は十月櫻という品種が咲いておりました。皆様お疲れ気味で、説明するところもないのに、2時間近くかかって到着です。私は皆さんが来る前に、下見の際、マンホールの中にあるのに標識が土に埋もれて見えなかったので、今回は土を掘る道具と、標識を洗う水2ℓ、ゴム手袋、タオルなどを持参しております。
でも、団体で見ているからこんなこと出来るのであって、一人なら怪しまれるでしょうね。道路上で、マンホールのふたを開けて、泥をほじくって水で洗い流して写真を撮っているなんて、通報されても仕方ないでしょう。何度でも言いますが、南端点も北端点も、中間点も日本の地図を作った当時の貴重な文化財です。この三角点第一号を確定させるために、人家はもとより、資材や計測器、食事等一切を原町田から運んでいるのです。先日相模原市立橋本図書館で見た「点記」(三角点を設置した際の公式記録文書)にそう記されています。あろうことか、今朝のNHKニュースでは、地図の昭文社が希望退職を80名募ったということでした。紙の地図が売れないためだそうです。自分自身も趣味以外で地図を買うことはなく、ほとんど画面のデジタル地図を仕事でも趣味でも利用しております。しかし、井戸を掘った先人たちの恩恵を今でも我々は受けているのです。せめてその記憶を残す遺産は大事にしたいものだと思います。
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  マンホールの中の『相模野基線中間点』。三角点の中では4等ですが、四角いのが当時のものだと思います。真ん中に(見た目は少しずれているようですが)金属標識が埋め込まれていますが、建設省国土地理院と、相模野基線中間点と刻銘してあります。マンホールの覆い蓋と同じ刻銘です。金属標識の真ん中に十字が彫られていて、基十本と東西方向に刻まれております。
by JF1EBPKH | 2018-12-15 22:45 | 趣味 | Comments(0)

相模野基線北端点

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   e0116694_23334386.jpg 昨夜遅く、パソコンをググってましたら、相模原市立橋本図書館で"明治と三角点"という講演が今日あると出ていました。ギャラリートークという名目でしたが、10名までとあります。もう遅かったので、今朝図書館のオープン時間を待って、ダメかなと思いながら電話を入れましたら、参加者が少ないので是非お越しください、とのこと。ならば、この際相模野基線の北端点も見ておこうと思い、ギャラリートークは午后2時からでしたが、自宅を大分早く(10時過ぎ)出掛けて行きました。南端点だけでは片手落ちでしょ。
  北端点は、相模原市の麻溝台中学校の西隣にある、と書いてあります。相模大野の駅で降りて、神奈中バスで北里大学東病院という停留所で下車しました。下車徒歩10分ほどとありましたが、中学校はすぐ判りましたが、北端点らしきものがありません。結構広い中学校で、周囲1kmくらいあるでしょうか。2周近く回ってみましたが、見つかりません。仕方なく、中学校の正門にいらした男性に尋ねてみましたが、知らないとのこと。私のタブレットを見せ、その人もスマホで検索しましたがわからないので、車で捜してみましょうと、自分の車を回してくれました。まぁ、何と親切な方でございましょうか。恐縮しながら乗り込んで、中学校をみたび廻りました。しかし、ありません。番地は相模原市南区麻溝台4-2099-2とあるのですが、地図検索で調べても、そんな4桁番地はありません。中学校の番地は麻溝台4-12-1です。地番整理があったのです。私はもう申し訳なくなって、さっき乗せていただいた正門で結構ですからといったのですが、西方面のまだ入っていない路地を、ここ車が通っていいのかな?なんて言いながらノロノロと進めると、写真で見た一角らしき箇所がありました。まぁ、小1時間ウロウロしたことになります。乗せていただいた方にお礼を申し上げ、急いで写真を撮り、さて橋本駅まで急がなければなりません。周りは住宅地と畑地が混ざっているようなところで、横浜線方面に出るバスはないか訊きたかったのですが、歩いている人が見当たりません。仕方なく、さっき降りた停留所まで戻り、しばし待って相模原駅南口行のバスに乗ったのはいいのですが、その所要時間のかかること約1時間。私は橋本駅で昼食を食べても十分な時間をみてたのですが、結局昼食無し、トイレ時間なし。橋本駅隣接の図書館に着いたのは2時を5分ほど回っておりました。
e0116694_23182216.jpg   ギャラリートークは相模山路会(山岳会)の川野整氏。相模原市内の山88座をすべて踏破し、そのついでに三角点を見て回っていらっしゃるという。まず三角点の存在意義から始まって、歴史、現状の三角点の状況など。相模原市内の北端点の話、丹沢山頂の一等三角点はもちろんですが、2010年より国土地理院は全国約109,000点ある三角点のうち、維持管理するのは骨格的な2,400点に絞り、その他は廃点、再設移転の復旧作業は行わない方針を決めたそうです。GPS測量によって電子基準点網が完備されたからだそうですが、かって一等三角点を築くために90キロもある基盤石を山頂まで人力で担いでいった先人達の労苦も忘れられてしまうのでしょう。土に埋もれてしまう三角点のように。

相模野基線北端点の住所は、
  相模原市南区麻溝台4-10-14
  佐藤整形外科の裏

左の書面は『点記』と呼ばれ、三角点を設置した際の報告書です。誰がいつ設置したのかはもちろん、どのように設置したか、周囲の状況はどうだったか。設置に携わった職員の装備、食料・飲料水の求め先、宿舎は?等々、細かな部分まで記載されている公文書です。私はこのような文書があるのを初めて知りました。
by JF1EBPKH | 2018-12-02 21:47 | 趣味 | Comments(0)
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  来月早々に、我々が会合の会場にしている南瀬谷小学校コミュニティスクールが主催して、講演と現地散策の企画がございます。今回は、"地図の原点はすぐそばにあった"として、相模野基線を見に行こうというもの。ご存じない方がほとんどだと思いますが、明治時代、日本が近代地図を作成するにあたって、国土を測量をする基準の基本をどこに置くかという基本の基本の線が引かれたのが相模野基線ということです。三角点の第一号ということですが、三角点一個では基準になりませんので、最低2つ必要になります。その2つの点がいづれも神奈川県にあって、南端が座間市。北端が相模原市にあります。それを見に行こうというわけですが、この役割の重要さを日本国民はもとより、地元の人もほとんど知らないのです。すぐ近くにあるのに、この存在を知らないのは国の教育行政の怠慢だと私は思うのですが、㈶日本土木学会が2010年に日本の土木遺産として指定するまで、ほっておかれた遺産です。
  今回はその下見です。しかし、この基線が引かれた明治15年当時、ここは山や樹木など何もない見通しの素晴らしく良い測量するには最適な平地として選ばれただけに、何かを物語るものが何もないのです。あるのは半世紀後に造られる日本軍の施設。海軍工廠や陸軍士官学校など。でも、歩くのにはちょっと方角が違います。せっかく参加される方に退屈させないようなもの、所はないかと、今日は座間市のふるさとガイドの方にご協力をいただいて下見歩きです。
e0116694_22195221.jpg明治15年2月 神奈川縣相模國髙座郡鵜野森村外四箇村 1/25000 迅速図
by JF1EBPKH | 2018-11-28 21:21 | 趣味 | Comments(0)

地図くらぶ講演3回目

e0116694_17451718.jpg  我が地図くらぶの講演3回目。テーマは、『瀬谷における学校教育』と、『鉄道の始まり』。場所は、区役所に併設されている公会堂の会議室。テーマが地味だし、場所は固いし、お客様(聴講者)は来ていただけるだろうかという心配も何のその。開演の頃は立ち見も出てしまうんじゃないかと心配事が変わってしまいました。 学校の話は、会員の元横浜国大の教育学の名誉教授。近代教育の前説が長すぎて、地元の学校の話が端折られてしまいましたが、ちょっと専門過ぎたかな。身近な話題でもっと聴かせて欲しかった。 鉄道の話は、我がくらぶの鉄チャンで著作も何冊も出されている東大卒の御仁。神奈川県内の鉄道発展史ですが、聞いたことのない鉄道がほとんど。鉄道敷設の申請をして仮免許認可されても、実態は中止であったり、許可がおりなかったりの会社ばかりだったからです。明治末には、神奈川県内の鉄道整備はほとんど完了して現在とあまり変わらなくなってしまうのですが、神奈中が鉄道へ触手を伸ばしていたり、厚木や八王子が現在よりも交通の要衝と思われていたのだとか、徒歩でしか移動がかなわなかった時代から、一気に鉄道が敷設された時代模様が窺われて興味がひかれました。個人の趣味でここまで調べていらっしゃるのはさすがでした。
by JF1EBPKH | 2018-11-11 17:43 | 趣味 | Comments(0)

登米高等尋常小学校

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     明治21年10月に落成してから、昭和48年4月まで実際に使われてきた小学校であることにまず驚かされます。木造2階建て、バルコニー付き。正面の2階建て三角破風をささえる4本の柱の柱頭にはギリシア・コリント用式の彫刻があります。開校以来、この学校は宮城県一の名門校として、この学校の校長になることはステイタスになったという。さもありなんです。設計は天保14年(1813)新潟県生まれの山添喜三郎。何と、明治8年に開催されたウイーン万博の際、日本館を作るための大工として派遣され、そのまま西洋建築を学ぶため9か月間ヨーロッパに派遣された大工だったというのです。、e0116694_21165936.jpg しかし、仕事には厳しかったらしく、材木を納入した業者や瓦屋、それに様々な職人たちからはかなり恨まれてしまったらしい。昭和56年に国の重要文化財に指定されますが(松本にある開智学校は昭和39年)、この町には旧水沢県庁、旧登米警察署のほか、幾つもの文化財建築物があるのです。何故?こんな田舎なのに豊かだったのか。それは北上川の水運によるコメや材木の集散地であったためだという。町の名前の通りなのだ。でも、登米市登米町(とめしとよままち)とは読みにくい地名です。
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左:旧登米町警察署
右:森の能舞台(隈研吾作)e0116694_21570528.jpg
by JF1EBPKH | 2018-11-09 22:06 | 趣味 | Comments(0)