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カテゴリ:趣味( 167 )

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  さて、今日は"相模野基線南端点"探索の本番です。朝から良い天気で、ちょっと寒そうですが、歩くのには最適かもしれません。相鉄線さがみの駅から総勢約20名でゾロゾロ歩き始めました。 さがみの駅北口を出ると、北に向かって広い道路がありますが、車道より歩道の方が倍近く広い道です。もとは滑走路だったそうで、国道246号線の向こうまでずっーとこの40m幅の道が続いています。車道と歩道の境には桜並木があって、この桜並木は戦後植えられたものですが、みな老木となってしまったので、現在植え替えが行われています。  座間といえば、神奈川県民には米軍座間キャンプの連想が湧きますが、かっては陸軍士官学校とか、海軍座間工廠とか、軍都としてのイメージがありました。小田急線の相模大野駅は、かって通信学校前駅でしたし、相武台前は士官学校前駅でした。それがアメリカとの戦争直前に、今の駅名に換えられていますが、今さら変えてもという気がします。相武台という名称も、昭和天皇が士官学校に行幸される際、陛下自らが命名した地名と言われておりますが、相武は相模の国と武蔵の国の境にある双方の一字を取ったものと思われますが、尚武の語呂合わせとも思えます。閑話休題。  さがみの駅からまっすぐ目的地へ行っても途中の話題がほとんどないので、少し回り道にはなりますが、芹沢公園を廻っての散策です。座間は市民の水道に市内の湧水を活用しています。市内の湧水だけで100%水道水は賄えるそうですが、地震など万が一のために15%ほどを県の水道企業団の水を引いているそうです。芹沢公園は大きな谷戸(やと)を公園にしたもので、この湧水の湧くポンプ場や、海軍工廠の工場跡地などを見ることが出来るのです。e0116694_22214662.jpg谷戸の段丘になっている崖に横穴を掘り、航空機の部品製造や組み立てを行っていたようで、この横穴を掘るために(だけではなくとも)、当時日本国だった台湾や朝鮮より若い人々を職工募集と称して集めていたようです。彼らの同窓75周年記念碑が今年の10月に建立されていました。しかし、台湾の人々は韓国の徴用工のような反日の傾向は感じられず、むしろ懐かしがって、これまでにも5年ごとに来日されていたそうで、今回の75年で皆年老いたので最後の同窓会とした記念なのだそうでした。民族性の違いだと思いたいです。
  なかなか南端点につきません。道路っ傍の標識を見付けると立ち止まり、看板があると写真を撮って読んでいるからです。でも、南端点にはちょうどお昼には到着いたしました。
  そこからは希望者のみ中間点へ。直線にして約2.5km。この区間には説明するものがまずありません。基線が計測された当時も何もない平原だったからこそ、ここに基線を引いたのですから。しかし、座間市はここにも桜の小道を作っています。六十数種の桜並木を植えて、一年中どこかの桜の木には花が咲いているという趣向です。今日は十月櫻という品種が咲いておりました。皆様お疲れ気味で、説明するところもないのに、2時間近くかかって到着です。私は皆さんが来る前に、下見の際、マンホールの中にあるのに標識が土に埋もれて見えなかったので、今回は土を掘る道具と、標識を洗う水2ℓ、ゴム手袋、タオルなどを持参しております。
でも、団体で見ているからこんなこと出来るのであって、一人なら怪しまれるでしょうね。道路上で、マンホールのふたを開けて、泥をほじくって水で洗い流して写真を撮っているなんて、通報されても仕方ないでしょう。何度でも言いますが、南端点も北端点も、中間点も日本の地図を作った当時の貴重な文化財です。この三角点第一号を確定させるために、人家はもとより、資材や計測器、食事等一切を原町田から運んでいるのです。先日相模原市立橋本図書館で見た「点記」(三角点を設置した際の公式記録文書)にそう記されています。あろうことか、今朝のNHKニュースでは、地図の昭文社が希望退職を80名募ったということでした。紙の地図が売れないためだそうです。自分自身も趣味以外で地図を買うことはなく、ほとんど画面のデジタル地図を仕事でも趣味でも利用しております。しかし、井戸を掘った先人たちの恩恵を今でも我々は受けているのです。せめてその記憶を残す遺産は大事にしたいものだと思います。
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  マンホールの中の『相模野基線中間点』。三角点の中では4等ですが、四角いのが当時のものだと思います。真ん中に(見た目は少しずれているようですが)金属標識が埋め込まれていますが、建設省国土地理院と、相模野基線中間点と刻銘してあります。マンホールの覆い蓋と同じ刻銘です。金属標識の真ん中に十字が彫られていて、基十本と東西方向に刻まれております。
by JF1EBPKH | 2018-12-15 22:45 | 趣味 | Comments(0)

相模野基線北端点

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   e0116694_23334386.jpg 昨夜遅く、パソコンをググってましたら、相模原市立橋本図書館で"明治と三角点"という講演が今日あると出ていました。ギャラリートークという名目でしたが、10名までとあります。もう遅かったので、今朝図書館のオープン時間を待って、ダメかなと思いながら電話を入れましたら、参加者が少ないので是非お越しください、とのこと。ならば、この際相模野基線の北端点も見ておこうと思い、ギャラリートークは午后2時からでしたが、自宅を大分早く(10時過ぎ)出掛けて行きました。南端点だけでは片手落ちでしょ。
  北端点は、相模原市の麻溝台中学校の西隣にある、と書いてあります。相模大野の駅で降りて、神奈中バスで北里大学東病院という停留所で下車しました。下車徒歩10分ほどとありましたが、中学校はすぐ判りましたが、北端点らしきものがありません。結構広い中学校で、周囲1kmくらいあるでしょうか。2周近く回ってみましたが、見つかりません。仕方なく、中学校の正門にいらした男性に尋ねてみましたが、知らないとのこと。私のタブレットを見せ、その人もスマホで検索しましたがわからないので、車で捜してみましょうと、自分の車を回してくれました。まぁ、何と親切な方でございましょうか。恐縮しながら乗り込んで、中学校をみたび廻りました。しかし、ありません。番地は相模原市南区麻溝台4-2099-2とあるのですが、地図検索で調べても、そんな4桁番地はありません。中学校の番地は麻溝台4-12-1です。地番整理があったのです。私はもう申し訳なくなって、さっき乗せていただいた正門で結構ですからといったのですが、西方面のまだ入っていない路地を、ここ車が通っていいのかな?なんて言いながらノロノロと進めると、写真で見た一角らしき箇所がありました。まぁ、小1時間ウロウロしたことになります。乗せていただいた方にお礼を申し上げ、急いで写真を撮り、さて橋本駅まで急がなければなりません。周りは住宅地と畑地が混ざっているようなところで、横浜線方面に出るバスはないか訊きたかったのですが、歩いている人が見当たりません。仕方なく、さっき降りた停留所まで戻り、しばし待って相模原駅南口行のバスに乗ったのはいいのですが、その所要時間のかかること約1時間。私は橋本駅で昼食を食べても十分な時間をみてたのですが、結局昼食無し、トイレ時間なし。橋本駅隣接の図書館に着いたのは2時を5分ほど回っておりました。
e0116694_23182216.jpg   ギャラリートークは相模山路会(山岳会)の川野整氏。相模原市内の山88座をすべて踏破し、そのついでに三角点を見て回っていらっしゃるという。まず三角点の存在意義から始まって、歴史、現状の三角点の状況など。相模原市内の北端点の話、丹沢山頂の一等三角点はもちろんですが、2010年より国土地理院は全国約109,000点ある三角点のうち、維持管理するのは骨格的な2,400点に絞り、その他は廃点、再設移転の復旧作業は行わない方針を決めたそうです。GPS測量によって電子基準点網が完備されたからだそうですが、かって一等三角点を築くために90キロもある基盤石を山頂まで人力で担いでいった先人達の労苦も忘れられてしまうのでしょう。土に埋もれてしまう三角点のように。

相模野基線北端点の住所は、
  相模原市南区麻溝台4-10-14
  佐藤整形外科の裏

左の書面は『点記』と呼ばれ、三角点を設置した際の報告書です。誰がいつ設置したのかはもちろん、どのように設置したか、周囲の状況はどうだったか。設置に携わった職員の装備、食料・飲料水の求め先、宿舎は?等々、細かな部分まで記載されている公文書です。私はこのような文書があるのを初めて知りました。
by JF1EBPKH | 2018-12-02 21:47 | 趣味 | Comments(0)
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  来月早々に、我々が会合の会場にしている南瀬谷小学校コミュニティスクールが主催して、講演と現地散策の企画がございます。今回は、"地図の原点はすぐそばにあった"として、相模野基線を見に行こうというもの。ご存じない方がほとんどだと思いますが、明治時代、日本が近代地図を作成するにあたって、国土を測量をする基準の基本をどこに置くかという基本の基本の線が引かれたのが相模野基線ということです。三角点の第一号ということですが、三角点一個では基準になりませんので、最低2つ必要になります。その2つの点がいづれも神奈川県にあって、南端が座間市。北端が相模原市にあります。それを見に行こうというわけですが、この役割の重要さを日本国民はもとより、地元の人もほとんど知らないのです。すぐ近くにあるのに、この存在を知らないのは国の教育行政の怠慢だと私は思うのですが、㈶日本土木学会が2010年に日本の土木遺産として指定するまで、ほっておかれた遺産です。
  今回はその下見です。しかし、この基線が引かれた明治15年当時、ここは山や樹木など何もない見通しの素晴らしく良い測量するには最適な平地として選ばれただけに、何かを物語るものが何もないのです。あるのは半世紀後に造られる日本軍の施設。海軍工廠や陸軍士官学校など。でも、歩くのにはちょっと方角が違います。せっかく参加される方に退屈させないようなもの、所はないかと、今日は座間市のふるさとガイドの方にご協力をいただいて下見歩きです。
e0116694_22195221.jpg明治15年2月 神奈川縣相模國髙座郡鵜野森村外四箇村 1/25000 迅速図
by JF1EBPKH | 2018-11-28 21:21 | 趣味 | Comments(0)

地図くらぶ講演3回目

e0116694_17451718.jpg  我が地図くらぶの講演3回目。テーマは、『瀬谷における学校教育』と、『鉄道の始まり』。場所は、区役所に併設されている公会堂の会議室。テーマが地味だし、場所は固いし、お客様(聴講者)は来ていただけるだろうかという心配も何のその。開演の頃は立ち見も出てしまうんじゃないかと心配事が変わってしまいました。 学校の話は、会員の元横浜国大の教育学の名誉教授。近代教育の前説が長すぎて、地元の学校の話が端折られてしまいましたが、ちょっと専門過ぎたかな。身近な話題でもっと聴かせて欲しかった。 鉄道の話は、我がくらぶの鉄チャンで著作も何冊も出されている東大卒の御仁。神奈川県内の鉄道発展史ですが、聞いたことのない鉄道がほとんど。鉄道敷設の申請をして仮免許認可されても、実態は中止であったり、許可がおりなかったりの会社ばかりだったからです。明治末には、神奈川県内の鉄道整備はほとんど完了して現在とあまり変わらなくなってしまうのですが、神奈中が鉄道へ触手を伸ばしていたり、厚木や八王子が現在よりも交通の要衝と思われていたのだとか、徒歩でしか移動がかなわなかった時代から、一気に鉄道が敷設された時代模様が窺われて興味がひかれました。個人の趣味でここまで調べていらっしゃるのはさすがでした。
by JF1EBPKH | 2018-11-11 17:43 | 趣味 | Comments(0)

登米高等尋常小学校

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     明治21年10月に落成してから、昭和48年4月まで実際に使われてきた小学校であることにまず驚かされます。木造2階建て、バルコニー付き。正面の2階建て三角破風をささえる4本の柱の柱頭にはギリシア・コリント用式の彫刻があります。開校以来、この学校は宮城県一の名門校として、この学校の校長になることはステイタスになったという。さもありなんです。設計は天保14年(1813)新潟県生まれの山添喜三郎。何と、明治8年に開催されたウイーン万博の際、日本館を作るための大工として派遣され、そのまま西洋建築を学ぶため9か月間ヨーロッパに派遣された大工だったというのです。、e0116694_21165936.jpg しかし、仕事には厳しかったらしく、材木を納入した業者や瓦屋、それに様々な職人たちからはかなり恨まれてしまったらしい。昭和56年に国の重要文化財に指定されますが(松本にある開智学校は昭和39年)、この町には旧水沢県庁、旧登米警察署のほか、幾つもの文化財建築物があるのです。何故?こんな田舎なのに豊かだったのか。それは北上川の水運によるコメや材木の集散地であったためだという。町の名前の通りなのだ。でも、登米市登米町(とめしとよままち)とは読みにくい地名です。
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左:旧登米町警察署
右:森の能舞台(隈研吾作)e0116694_21570528.jpg
by JF1EBPKH | 2018-11-09 22:06 | 趣味 | Comments(0)

地図くらぶ 講座第2回

e0116694_20514704.jpg  今日は"横浜・瀬谷地図くらぶ"の今年度2回目の公開講座です。テーマは、『南台にあった大日本兵器 第五製作所』と『大日本兵器製作所跡地の住宅開発』。南台は、我が家が山形の疎開先からJターンして横浜に定住したところです。昭和29年からですから、もう65年目になります。大日本兵器株式会社は、敗戦とともに消滅し、『日平産業』と名前を換えて再出発しますが、第五製作所の事務所だったと思われる建物は"日平会館"として戦後もしばらく残っていて、南台が住宅地に大変貌する昭和40年代まで南台デパートの名で住宅地の中の商業施設として使われていました。現在、そこにはマンションが建っています。  戦後の復興住宅であった南台住宅は建替えられ、我が家も引っ越しして隣接する町に住んでいますが、小・中学校の同級生たちはもうほとんどいません。この講演のために、南台住宅の間取り図を描く必要があったのですが、訊いて歩く知り合いがいないのです。なので、実姉やその友人、ご近所に住んでいた人を尋ねたり電話をしたりして間取りの確認をしたのですが、皆様うろ覚えの所もあって、結構手間取りました。では、建て替えられた中層住宅の今の住民はというと、東南アジアや市があっせんした高齢者が結構多いのです。隣の大和市も公営住宅は似た状況にあって、外国から来た新しい住民のために、小学校では10あまりの言語が必要になって、毎朝校門の前での挨拶をするのも替わり番こで様々な言語で先生が立っているのだそうです。すごい時代になったものです。今日の土曜日は、久しぶりに良いお天気になって、すぐそばの小学校でも運動会がありましたが、我々の時代には万国旗が運動場の上に紐で繋がれておりました。今は小学校から万国の人と実際にお友達です。南台の住民も様変わりをしてしまって、今日はもう少し南台の人に来てもらいたかったんですが、縁もゆかりも感じない住民が多くなってしまったのだろうなぁと思っています。 
by JF1EBPKH | 2018-10-20 22:24 | 趣味 | Comments(0)

地図くらぶ 講座第一回

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   今朝は、午前中に"横浜・瀬谷地図くらぶ"の公開講座を開く日です。開演は10時ですが、9時には会場へ着いていたいと8時40分には自転車で家を出たのですが、何と道を間違えてしまい、かまくら道を南北に行ったり戻ったりで、着いたのは9時10分過ぎ。住宅街は道を間違えやすいのですが、谷を2つほどくだり、また登るので汗だくでした。
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  本日のテーマは、『三ツ境周辺の住宅開発と商店街の歩み』。瀬谷は古い地名ですが、三ツ境は昭和37年に阿久和町から分離した新しい町名になります。戦後の住宅難から駅周辺の森林伐採が行われ、昭和30年代から急速な宅地開発によって瀬谷区でも一番商業地区が発展して映画館まであった時代です。講師は我が地図くらぶの会員と、地元の商店会の古株の方。聴衆は20名を目標としましたが、稀勢の里を上回る二ケタのお越しをいただいて、まずは盛況でございました。  今日は中秋の名月。長屋門公園内の旧安西家の母屋の和室で行われたのですが、縁側にはススキと月見団子、サツマイモ、栗などが供えられて、雰囲気的にもなかなか良かった講座でした。会場は、寺子屋みたいでしょ。
by JF1EBPKH | 2018-09-24 20:46 | 趣味 | Comments(0)

異形の仏たち

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 e0116694_22433921.jpg    真木大堂は国道沿いにあります。ここにある九体の重要文化財の仏たちは、昭和40年に造られた完全空調の収蔵庫に収まっていらっしゃいます。通常はガラスで仕切られたこちら側から拝観させていただくのですが、今回は事前に拝観願いを出しておりましたので、「皆さん方のために、湿度と気温を調整してお待ちしておりました」と、収蔵庫の中まで案内されました。「写真もご自由に」とのことなので、某氏などはここぞとばかりにシャッターをバシバシと切っておりました。まぁ、ちょっと驚きです。 中央に阿弥陀如来と四天王、右手には不動明王と制叱迦、衿羯羅の両童子、左手は日本で一番大きい大威徳明王です。いづれも迫力ある作品ですが、この大威徳明王は素晴らしい出来です。東寺の大威徳明王より、近くで見ているためか自分に迫ってくるようです。お乗りになっている牛も太くて短い水牛の角があり、後世のようにだんだん日本化して和牛になってしまっていません。e0116694_22421315.jpg  収蔵庫の中はそれほど広くはないので、あちこち見て回りますと、広目天像の足元に踏みつけられている邪気の説明がありました。手の指は4本、足指は2つに分かれています、とのこと。見れば、邪気の足は牛のように蹄が割れております。偶蹄目ウシ科という言葉が浮かびます。かって朝鮮の人々は、日本人は足袋を履いて、草履やゲタを履いているので、「チョッパリ(またはジョッパリ」と日本人を蔑称していました。  邪気は人間ではありません。かといって100%動物でもありません。この邪気を作った人は、人でもなく動物でもない、しかし仏に逆らうものとしてこの4本指、偶蹄足の動物を創作したのでしょう。大威徳明王は、顔が六面手足は六本もあります。千手千眼観音などは、その名の通り☝が千本、👀が千もあるのですよ。考えれば怪奇以外の何物でもありません。
by JF1EBPKH | 2018-09-23 23:44 | 趣味 | Comments(0)

臼杵の石仏

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 今回の国東(くにさき)で一番見たかったものは、臼杵の大日如来と、熊野磨崖仏でした。どちらも、二十数年前に見ておりますが、臼杵の大日如来はまだ地面の上に置いてあって、「ヘェー、日本にもこんなに端正なお顔をなさっている石仏があるんだねえー」と、惚れ惚れと眺めておりました。  その石仏の頭が、元あった胴体の上に乗せられて、造られた当時のように修復されてはいるのですが、テレビなどで見た限りでは、どうも以前の地面にあった頃のような端正さが無くなってしまったように思えるのです。今回はそれを確認したかったのです。あの当時、頭は地面にあったので、視線は当然幾分上から俯瞰するような角度で見ています。今回は、下から見上げています。下から見ると、頬がふっくらと見えるからでしょうか。どっしりと、石の質感はどちらも十分感じられます。でも、威厳さは写真で見ても、やはり下にあった方が感じられます。何故なのかな。
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  端正な表情をした石仏といえば、中国龍門のご本尊奉先寺の廬舎那仏が好きですね。こちらも惚れ惚れしてしまいます。高さは17mほどありますが(奈良の大仏より2mくらい大きい)、露座なのに風化していません。材質はカンラン石で、これは彫刻などには向いてない硬い石です。対して、臼杵の石仏は凝灰岩系の石ですから、風化しやすい。ブラタモリ風になってきました。 
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どちらも大好きです。     ※下の写真は、頭が地面にあった当時のもの。
by JF1EBPKH | 2018-09-21 22:16 | 趣味 | Comments(0)
e0116694_20204600.jpg   金属活字の講演も今日は最終回。昨夜はNHKの《美の壺》でも「フォント」というテーマで明朝体のいわれなどもやっていましたので、冒頭にでも少しはこの番組の話題が出るのかなと思っていましたが少しも出ないで、「上海のヘボンと吟香(ぎんこう)」という私にはほとんど食指が動かないお話でした。しかし、講演会は満席の大盛況で、用意してたレジュメが足らず、係の人があわてて増し刷りをしていたようでした。今日の講演者は、今回の展示コレクションのご本人小宮山博史さんで、講演が始まる前にいろんな人が後援者に挨拶をされていましたので、関係者も相当お見えであったのだろうと思います。  しかし、私は明朝体やゴシック体など、活字の基本がどのように造られてきたのかを知りたかったのです。 e0116694_21072587.jpg たとえば、左の上段は明朝体、下段はゴシック体の字母です。もっと詳しく言うと、上段の明朝体は読売新聞の岩田母型の見出し活字です。同じ明朝体でも、母型はいろいろあって、文面に合わせた書体が各種造られています。それぞれに造った人などの名前が付けられていて、業界の人ならすぐわかるようになっています。この文を書いている書体でも、各パソコンメーカーの人がドット数に応じて各フォントの書体を作っているはずです。ワードプロセッサーの時代、私はサンヨー製の字体が好ましく思えて(ひらがなの丸みが気に入ってました)、かなり長くそのワープロを使っていました。 今、どのパソコンにもいろいろな書体が組み込まれています。大きさも自由に換えられて、ワープロの時代より格段に使い勝手は良くなっています。e0116694_21133618.jpg  しかし、書体の話からは少し外れてしまいますが、わが国にはもっと楽しい書体がいっぱいあります。たとえば、左の書体ですが、すべて千社札になっていますが、千社札字なのは関岡扇令さんのものだけ。右端の八十助さんのは勘亭流。歌舞伎の看板にも使われる文字ですが、元は浄瑠璃本の文字。左端は落語の寄席文字ですが、これを作ったのはこの橘右近さん。もうお亡くなりになってしまいましたが、相撲字とか勘亭流とかから編み出したと聞いた覚えがあります。ほかにも、提灯や籠などに描かれた籠文字や髭文字。日本酒のラベルにもこのような文字がたくさん使われています。
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by JF1EBPKH | 2018-06-23 20:40 | 趣味 | Comments(0)