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カテゴリ:趣味( 164 )

地図くらぶ講演3回目

e0116694_17451718.jpg  我が地図くらぶの講演3回目。テーマは、『瀬谷における学校教育』と、『鉄道の始まり』。場所は、区役所に併設されている公会堂の会議室。テーマが地味だし、場所は固いし、お客様(聴講者)は来ていただけるだろうかという心配も何のその。開演の頃は立ち見も出てしまうんじゃないかと心配事が変わってしまいました。 学校の話は、会員の元横浜国大の教育学の名誉教授。近代教育の前説が長すぎて、地元の学校の話が端折られてしまいましたが、ちょっと専門過ぎたかな。身近な話題でもっと聴かせて欲しかった。 鉄道の話は、我がくらぶの鉄チャンで著作も何冊も出されている東大卒の御仁。神奈川県内の鉄道発展史ですが、聞いたことのない鉄道がほとんど。鉄道敷設の申請をして仮免許認可されても、実態は中止であったり、許可がおりなかったりの会社ばかりだったからです。明治末には、神奈川県内の鉄道整備はほとんど完了して現在とあまり変わらなくなってしまうのですが、神奈中が鉄道へ触手を伸ばしていたり、厚木や八王子が現在よりも交通の要衝と思われていたのだとか、徒歩でしか移動がかなわなかった時代から、一気に鉄道が敷設された時代模様が窺われて興味がひかれました。個人の趣味でここまで調べていらっしゃるのはさすがでした。
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by JF1EBPKH | 2018-11-11 17:43 | 趣味 | Comments(0)

登米高等尋常小学校

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     明治21年10月に落成してから、昭和48年4月まで実際に使われてきた小学校であることにまず驚かされます。木造2階建て、バルコニー付き。正面の2階建て三角破風をささえる4本の柱の柱頭にはギリシア・コリント用式の彫刻があります。開校以来、この学校は宮城県一の名門校として、この学校の校長になることはステイタスになったという。さもありなんです。設計は天保14年(1813)新潟県生まれの山添喜三郎。何と、明治8年に開催されたウイーン万博の際、日本館を作るための大工として派遣され、そのまま西洋建築を学ぶため9か月間ヨーロッパに派遣された大工だったというのです。、e0116694_21165936.jpg しかし、仕事には厳しかったらしく、材木を納入した業者や瓦屋、それに様々な職人たちからはかなり恨まれてしまったらしい。昭和56年に国の重要文化財に指定されますが(松本にある開智学校は昭和39年)、この町には旧水沢県庁、旧登米警察署のほか、幾つもの文化財建築物があるのです。何故?こんな田舎なのに豊かだったのか。それは北上川の水運によるコメや材木の集散地であったためだという。町の名前の通りなのだ。でも、登米市登米町(とめしとよままち)とは読みにくい地名です。
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左:旧登米町警察署
右:森の能舞台(隈研吾作)e0116694_21570528.jpg
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by JF1EBPKH | 2018-11-09 22:06 | 趣味 | Comments(0)

地図くらぶ 講座第2回

e0116694_20514704.jpg  今日は"横浜・瀬谷地図くらぶ"の今年度2回目の公開講座です。テーマは、『南台にあった大日本兵器 第五製作所』と『大日本兵器製作所跡地の住宅開発』。南台は、我が家が山形の疎開先からJターンして横浜に定住したところです。昭和29年からですから、もう65年目になります。大日本兵器株式会社は、敗戦とともに消滅し、『日平産業』と名前を換えて再出発しますが、第五製作所の事務所だったと思われる建物は"日平会館"として戦後もしばらく残っていて、南台が住宅地に大変貌する昭和40年代まで南台デパートの名で住宅地の中の商業施設として使われていました。現在、そこにはマンションが建っています。  戦後の復興住宅であった南台住宅は建替えられ、我が家も引っ越しして隣接する町に住んでいますが、小・中学校の同級生たちはもうほとんどいません。この講演のために、南台住宅の間取り図を描く必要があったのですが、訊いて歩く知り合いがいないのです。なので、実姉やその友人、ご近所に住んでいた人を尋ねたり電話をしたりして間取りの確認をしたのですが、皆様うろ覚えの所もあって、結構手間取りました。では、建て替えられた中層住宅の今の住民はというと、東南アジアや市があっせんした高齢者が結構多いのです。隣の大和市も公営住宅は似た状況にあって、外国から来た新しい住民のために、小学校では10あまりの言語が必要になって、毎朝校門の前での挨拶をするのも替わり番こで様々な言語で先生が立っているのだそうです。すごい時代になったものです。今日の土曜日は、久しぶりに良いお天気になって、すぐそばの小学校でも運動会がありましたが、我々の時代には万国旗が運動場の上に紐で繋がれておりました。今は小学校から万国の人と実際にお友達です。南台の住民も様変わりをしてしまって、今日はもう少し南台の人に来てもらいたかったんですが、縁もゆかりも感じない住民が多くなってしまったのだろうなぁと思っています。 
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by JF1EBPKH | 2018-10-20 22:24 | 趣味 | Comments(0)

地図くらぶ 講座第一回

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   今朝は、午前中に"横浜・瀬谷地図くらぶ"の公開講座を開く日です。開演は10時ですが、9時には会場へ着いていたいと8時40分には自転車で家を出たのですが、何と道を間違えてしまい、かまくら道を南北に行ったり戻ったりで、着いたのは9時10分過ぎ。住宅街は道を間違えやすいのですが、谷を2つほどくだり、また登るので汗だくでした。
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  本日のテーマは、『三ツ境周辺の住宅開発と商店街の歩み』。瀬谷は古い地名ですが、三ツ境は昭和37年に阿久和町から分離した新しい町名になります。戦後の住宅難から駅周辺の森林伐採が行われ、昭和30年代から急速な宅地開発によって瀬谷区でも一番商業地区が発展して映画館まであった時代です。講師は我が地図くらぶの会員と、地元の商店会の古株の方。聴衆は20名を目標としましたが、稀勢の里を上回る二ケタのお越しをいただいて、まずは盛況でございました。  今日は中秋の名月。長屋門公園内の旧安西家の母屋の和室で行われたのですが、縁側にはススキと月見団子、サツマイモ、栗などが供えられて、雰囲気的にもなかなか良かった講座でした。会場は、寺子屋みたいでしょ。
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by JF1EBPKH | 2018-09-24 20:46 | 趣味 | Comments(0)

異形の仏たち

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 e0116694_22433921.jpg    真木大堂は国道沿いにあります。ここにある九体の重要文化財の仏たちは、昭和40年に造られた完全空調の収蔵庫に収まっていらっしゃいます。通常はガラスで仕切られたこちら側から拝観させていただくのですが、今回は事前に拝観願いを出しておりましたので、「皆さん方のために、湿度と気温を調整してお待ちしておりました」と、収蔵庫の中まで案内されました。「写真もご自由に」とのことなので、某氏などはここぞとばかりにシャッターをバシバシと切っておりました。まぁ、ちょっと驚きです。中央に阿弥陀如来と四天王、右手には不動明王と制叱迦、衿羯羅の両童子、左手は日本で一番大きい大威徳明王です。いづれも迫力ある作品ですが、この大威徳明王は素晴らしい出来です。東寺の大威徳明王より、近くで見ているためか自分に迫ってくるようです。お乗りになっている牛も太くて短い水牛の角があり、後世のようにだんだん日本化して和牛になってしまっていません。e0116694_22421315.jpg  収蔵庫の中はそれほど広くはないので、あちこち見て回りますと、広目天像の足元に踏みつけられている邪気の説明がありました。手の指は4本、足指は2つに分かれています、とのこと。見れば、邪気の足は牛のように蹄が割れております。偶蹄目ウシ科という言葉が浮かびます。かって朝鮮の人々は、日本人は足袋を履いて、草履やゲタを履いているので、「チョッパリ(またはジョッパリ」と日本人を蔑称していました。  邪気は人間ではありません。かといって100%動物でもありません。この邪気を作った人は、人でもなく動物でもない、しかし仏に逆らうものとしてこの4本指、偶蹄足の動物を創作したのでしょう。大威徳明王は、顔が六面手足は六本もあります。千手千眼観音などは、その名の通り☝が千本、👀が千もあるのですよ。考えれば怪奇以外の何物でもありません。
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by JF1EBPKH | 2018-09-23 23:44 | 趣味 | Comments(0)

臼杵の石仏

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 今回の国東(くにさき)で一番見たかったものは、臼杵の大日如来と、熊野磨崖仏でした。どちらも、二十数年前に見ておりますが、臼杵の大日如来はまだ地面の上に置いてあって、「ヘェー、日本にもこんなに端正なお顔をなさっている石仏があるんだねえー」と、惚れ惚れと眺めておりました。  その石仏の頭が、元あった胴体の上に乗せられて、造られた当時のように修復されてはいるのですが、テレビなどで見た限りでは、どうも以前の地面にあった頃のような端正さが無くなってしまったように思えるのです。今回はそれを確認したかったのです。あの当時、頭は地面にあったので、視線は当然幾分上から俯瞰するような角度で見ています。今回は、下から見上げています。下から見ると、頬がふっくらと見えるからでしょうか。どっしりと、石の質感はどちらも十分感じられます。でも、威厳さは写真で見ても、やはり下にあった方が感じられます。何故なのかな。
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  端正な表情をした石仏といえば、中国龍門のご本尊奉先寺の廬舎那仏が好きですね。こちらも惚れ惚れしてしまいます。高さは17mほどありますが(奈良の大仏より2mくらい大きい)、露座なのに風化していません。材質はカンラン石で、これは彫刻などには向いてない硬い石です。対して、臼杵の石仏は凝灰岩系の石ですから、風化しやすい。ブラタモリ風になってきました。 
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どちらも大好きです。     ※下の写真は、頭が地面にあった当時のもの。
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by JF1EBPKH | 2018-09-21 22:16 | 趣味 | Comments(0)
e0116694_20204600.jpg   金属活字の講演も今日は最終回。昨夜はNHKの《美の壺》でも「フォント」というテーマで明朝体のいわれなどもやっていましたので、冒頭にでも少しはこの番組の話題が出るのかなと思っていましたが少しも出ないで、「上海のヘボンと吟香(ぎんこう)」という私にはほとんど食指が動かないお話でした。しかし、講演会は満席の大盛況で、用意してたレジュメが足らず、係の人があわてて増し刷りをしていたようでした。今日の講演者は、今回の展示コレクションのご本人小宮山博史さんで、講演が始まる前にいろんな人が後援者に挨拶をされていましたので、関係者も相当お見えであったのだろうと思います。  しかし、私は明朝体やゴシック体など、活字の基本がどのように造られてきたのかを知りたかったのです。 e0116694_21072587.jpg たとえば、左の上段は明朝体、下段はゴシック体の字母です。もっと詳しく言うと、上段の明朝体は読売新聞の岩田母型の見出し活字です。同じ明朝体でも、母型はいろいろあって、文面に合わせた書体が各種造られています。それぞれに造った人などの名前が付けられていて、業界の人ならすぐわかるようになっています。この文を書いている書体でも、各パソコンメーカーの人がドット数に応じて各フォントの書体を作っているはずです。ワードプロセッサーの時代、私はサンヨー製の字体が好ましく思えて(ひらがなの丸みが気に入ってました)、かなり長くそのワープロを使っていました。 今、どのパソコンにもいろいろな書体が組み込まれています。大きさも自由に換えられて、ワープロの時代より格段に使い勝手は良くなっています。e0116694_21133618.jpg  しかし、書体の話からは少し外れてしまいますが、わが国にはもっと楽しい書体がいっぱいあります。たとえば、左の書体ですが、すべて千社札になっていますが、千社札字なのは関岡扇令さんのものだけ。右端の八十助さんのは勘亭流。歌舞伎の看板にも使われる文字ですが、元は浄瑠璃本の文字。左端は落語の寄席文字ですが、これを作ったのはこの橘右近さん。もうお亡くなりになってしまいましたが、相撲字とか勘亭流とかから編み出したと聞いた覚えがあります。ほかにも、提灯や籠などに描かれた籠文字や髭文字。日本酒のラベルにもこのような文字がたくさん使われています。
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by JF1EBPKH | 2018-06-23 20:40 | 趣味 | Comments(0)

なぜ、明朝体なのか?

e0116694_21131342.jpg   横浜開港資料館での『金属活字と明治の横濱』講座2回目。本日の講師は、明治学院大学講師宮坂弥代生氏。明学大といえば、ヘボンです。宣教師、医師として横浜に滞在し、ヘボン式ローマ字を考案。のち、明学大を創設して初代総長になっています。なので、その関連からの講師選定なのかな、と思いましたらまったく関連無しとのお断りが最初にありました。しかし、講演の終焉になって、ヘボン、フルベッキ、ブラウンと、明学大を創設した3名(明学大の記念館に肖像画が掲げられています)が、本日の話題と重なる人物であったという、なんともうまい結末までありました。      本日の講演のレジュメは、➀印刷の歴史、②美華書館と日本ー近代日本の活版印刷の展開、となっています。➀印刷の歴史では、印刷の発明は中国なのに、なぜグーテンベルクが印刷の父と呼ばれるようになったのかと謎解きがありました。講師は、印刷の定義として、版を用いて圧力により同じものを大量に作る技術としています。イギリスのBBCによるアンケートで、この千年間で最も偉大な発明家の第一位にグーテンベルクがノミネートされ、エジソンやダヴィンチでもなかったそうです。それは、東洋と西洋の印刷物に関わる文化史的な背景の違いが大きいのではないかと講師は推察していますが、印刷物はプロテスタントたちが、宗教を敷延させた最も有効な手段だったから、というものでした。西欧人が東洋に宗教を広めるためにまず初めにしたことは、現地の言葉で布教する事。そのために辞書を作って言葉を覚えようとしたことでした。ヘボンが日本語をローマ字で表記したように、伝道団は自らの布教をするために、伝道団の印刷所を作ります。東洋は基本漢字文化圏ですが、グーテンベルクが活字印刷をしたように、彼らは漢字を活字にしようとします。しかし、漢字は筆画が複雑で画数も多く、標準化しにくかったのです。中国の印刷物は、日本と同じように一枚の木に絵も文字も一緒に彫ってしまう版木から作られていましたし、木版に彫って刷る速さは、重たい活字を組んでプレスにかけるよりはるかに効率的でした。再版ならなおさらです。
  そこで選ばれた書体が、明朝体でした。講師によれば、明の時代はいろいろな分野で書籍の出版が行われ、読者層が飛躍的に増えたために版木を効率的に彫らねばならず、縦画は太く、横画は細く、止めはウロコ(=三角形▲)に、と指示するだけで文字の基本デザインが出来てしまうのでした。私は、明朝体という呼称がどうして名付けられたのか、調べたことがありましたがよく判りませんでした。今日、ようやく腑に落ちました。しかし、中国の人は現在でも明朝体はそれほど好きではないらしいのです。筆の筆致が分かる書体の方が好きなのだそうです。標題の写真は、フランス国立印刷所が1805年にローマ教皇ピウス7世に献呈した活字見本で、縦横16mmの大きさの木活字です。150ほどの漢字活字が作られたそうですが、ドイツやイギリスでも同様な活字見本がたくさん試作されています。必要は発明の母と言われておりますが、宗教を広めるためにという命題には答えられたのでしょうか。
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by JF1EBPKH | 2018-06-09 21:59 | 趣味 | Comments(0)

金属活字と明治の横濱

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  さて今日は、私の研修です。横浜開港資料館での企画展に関わる講演で、3回開かれる予定です。申込者多数の場合抽選とありましたが、運良く当たりました。何年か前、印刷博物館で開かれた朝鮮活字の講演も聴きに行きましたが、今回は活字の書体史研究家小宮山博史氏の収集された展示ですので、お話も書体が中心になるかもしれません。
  しかし、私的には活字がもたらした文化背景、文化の伝播、そしてそれらを可能にさせた工人(職人)のことに触れてもらえたらとても嬉しい。活字文化がもたらしたものは、測り知れないと思います。毛筆で一文字書いたスペースに、活字ならば何文字入るでしょう。美濃判1枚に、1号ポイントなら、何文字入るでしょう。それだけでも文字量にしたら膨大な差が出ます。さらに、金属活字であればインクは油性、紙も和紙のような長く軟らかい繊維ではなく、表面が緻密で滲まないものが求められるはずです。
  活字そのものはどうでしょう。どうやって造るか。家康は朝鮮で活字が作られていることを知って、林羅山や金地院崇伝に命じて駿河版銅活字を作らせますが、長続きしませんでした。会場からこの質問もあって、それは活字を作るのにとてもお金がかかったこと。そして、需要者は高所得者の階層に限られてしまい、版元も木版に数ページ彫ってもそれほど時間がかからず、版木が財産となって譲ることも可能だったからではないかと言うことでした。活字なら、一回刷ってしまえばまたバラバラに活字棚に戻されてしまうでしょう。納得です。活字は、俗に活字合金とまで命名されている鉛の合金です。低い温度で溶解し、凝固時の収縮が少なく、ある程度固くて彫刻がしやすく摩耗にも耐えるものと言うことで、鉛、錫、アンチモンで作られていますが、その比率を見つけたのがグーテンベルクでした。   
  印刷博物館には、基本の活字を彫る(種字と言います=この鋳型から活字を作り、まさに種のように文字を生み出すからです)道具が展示されていました。ナギナタのような彫刻刀(ハンコを彫る技術と似ているので篆刻刀かな?)がありましたが、今回もルーペと字母(種字を生み出すので字の母にあたります)が展示されていました。
講演はあと2回あります。会場には、印刷業の方が多いようでしたが、広辞苑のような辞書が活字で出来ていなかったら、とても持ち運びが出来なかったでしょう。また、ワードプロセッサーやパソコンで、現代の我々は種字を彫ることもなく、字の大きさも自由に転換できる機械を手にしてしまいました。グーテンベルクにも、パソコンを発明した人にも感謝を忘れることはできません。


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by JF1EBPKH | 2018-05-26 22:44 | 趣味 | Comments(0)

伊能忠敬の日本図

e0116694_22360195.jpg  さて次は、上野の東博です。いやぁー、上野は混んでました。広小路も公園も。これじゃあ東博も混んでいるかなと少し心配でしたが、そんなこともなく(特別展ではないので)、目的は達せられましたが、いろいろ不満は残りました。  まず、入場切符です。伊能忠敬の日本図は、企画展でも特別展でもないので、自販機で通常展示の入場券を買えばいいのかどうか、解りませんでした。6~8台ある自販機前にも、人がいる窓口にも入場切符を買おうとする人が一杯並んでいるのです。無駄な時間をとりたくありませんから、列を整理している係員に訊いてみますと、伊能忠敬展に行きたいのですがと言うと、ハイ3番に並んで下さいと言われました。3番窓口は人がいる窓口ですが、通常見学の切符売り場です。本当にここでいいのか? 疑心暗鬼でいるうちに番が来ました。「地図展に行きたいのですが」、「映画はどうしますか?」と訊かれました。映画ねぇ。平成館で、忠敬の映画をやっているのは知っていましたが、どんな内容かは知りません。でも、せっかく来たのだから「お願いします」と答えました。「では、1,000円いただきます」と言われましたので支払いをして、映画の予約が15時からの券をもらいました。映画が平成館なので、展示も平成館だろうと思って平成館をウロウロしましたが、それらしい展示がありません。1階2階と回って、入口の案内を見て、おかしいなぁと思って入口の案内の方に尋ねましたら、地図は本館の10号室ですとのこと。何だ、本館なのかと、10号室ですよね、と念を押すとハイそうですと頷かれます。階段を上がったり下りたりで、少し左足に神経痛が出てきておりましたが本館に向かいます。10号室、10号室と1階の平面図を見ましたが、1階は11号室から20号室までで、新指定された国宝・重文の展示室となっております。アレッと思って2階の平面図を見ますと10号室がありました。何だ2階なのか、と2階へ上がって裏側の10号室へ。でも、そこは江戸の衣装とか浮世絵の部屋で、地図はありません。両隣も見ましたが地図は無し。ウーン、地図はどこだ。と館員らしき人を見つけて尋ねますと、それは1階の15号室ですというではないですか。エーッ。平成館に行ってなくて、本館の10号室と言われてなくて、15号室ですか。平成館では、10号室ですよねと2回も念を押したし、1階ですよねとも訊いています。左足が不自由なのにどれだけ無駄な歩みをしたことでしょう。そして15号室へ行ってみたら確かにありましたが、たったの2枚。それも九州宮崎日向海岸のもの。たったこれだけですか。もう、ガッカリ。  15時の映画の時間がまじかでしたので再び平成館に戻って地下の映写室へ。正味35分の映画でしたが、これは可もなく不可もなし。映画だけだと500円の作品ですが、伊能忠敬のすごさをもっと語って欲しかったですね。地図と同じ部屋に展示されていた文久遣欧使節団の写真と表示板が入れ替わっていましたので、館内のボランティアガイドに指摘しておきましたが、最近の東博にはがっかりさせられます。あ~あ、今回はたくさん愚痴ってしまいました。 🙇ご免なさい。
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伊能図に記された瀬谷村を歩く忠敬の姿を3Dで表した画面のコピーです。
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by JF1EBPKH | 2018-05-06 23:14 | 趣味 | Comments(0)